コンプライアンス、すなわち法令遵守の重要性は、企業の社会的責任が強く問われる現代において周知の事実である。にもかかわらず、現場ではその遵守が徹底されず、繰り返し違反が発生している。問題は、単に制度やルールが存在するか否かではない。むしろ、人の内面、すなわち感情や認知に潜む力が、コンプライアンスの実行を阻んでいるという事実に目を向けねばならない。
人は感情の動物であり、合理性だけで行動することは難しい。たとえば「売上の数字を何としても達成しなければならない」というプレッシャーがかかったとき、本来なら守るべきルールよりも、その場の成果を優先してしまう心理が働く。このとき浮かび上がる感情は「焦り」「恐れ」「孤独感」である。これらの感情は、行動を短絡的にし、長期的なリスクを無視させてしまう。
また、ルールに対する「不満」や「違和感」も、遵守を遠ざける大きな要因である。現場の実情に合わない形で上から降ろされたルールは、「守っても意味がない」「形だけ守ればいい」といった感情を生み出し、結果としてルールが骨抜きになる。こうした空気が蔓延すると、違反は一部の人間の問題ではなく、組織文化の一部として定着してしまう危険がある。
さらに厄介なのが、「みんなやっている」「誰も見ていないから大丈夫だ」という同調や油断である。このとき人の感情は「安心」に近いものへと転化され、罪悪感は薄れ、自己正当化が進む。ここに至っては、ルールの存在そのものが意識から消え、違反行為が常態化する。つまり、感情によってルールの意味づけが書き換えられてしまうのである。
ルールが感情に勝てない最大の理由は、ルールが抽象的であり、感情が生々しいからである。紙に書かれた規則は静的であるが、感情は瞬間的で強烈である。たとえば「納期を守れ」と言われるよりも、「明日までに出せないとチームが迷惑をかける」という焦燥感の方が人を動かしてしまう。この差が、ルール軽視を生み出す構造である。
では、どうすればコンプライアンスを実行可能なものにできるのか。その鍵は、感情を扱う力にある。まず重要なのは「感情の自覚」、すなわち自己認識である。「なぜ自分はいまルールを破ろうとしているのか」「どんな気持ちが行動を後押ししているのか」といった内面の動きに気づくことが第一歩となる。
次に必要なのは、感情に共感する職場環境の整備である。ルール違反を責めるだけではなく、なぜそれが起きたのか、その背景にどのような感情があったのかを問う対話ができる組織文化が求められる。つまり、コンプライアンスは一人の責任にせず、組織の感情的安全性のなかで育むべきものである。
最後に、ルールそのものも、感情に届く形で設計し直す必要がある。現場の声を反映させ、守ることの意味が実感できるルールでなければ、形骸化は避けられない。感情と制度が分離している限り、いかなる規則も真に機能することはないのである。
コンプライアンスとは、感情と行動のあいだに橋をかける営みである。その橋が自己認識によって支えられ、組織の文化によって補強されるとき、初めてコンプライアンスは実効性を持ち得る。人の感情に寄り添うことこそ、組織の本当の健全性を守るための第一歩となるのである。